かぐや姫の帝はなぜ鋭利なあごなのか?高畑勲が仕掛けた衝撃演出
ジブリ かぐや 姫 あごというフレーズが、公開から長い年月を経た今なおSNSのタイムラインで突発的に大バズを起こす現象をご存じだろうか。スタジオジブリが総力を挙げて世に送り出した『かぐや姫の物語』。その劇中に登場する最高権力者・帝(みかど)が見せた極端な鋭角のフェイスラインは、劇場公開当時の観客のド肝を抜き、瞬く間に無数のパロディ画像やアスキーアートを生み出すネットミームへと昇華した。
一見するとネット上で面白おかしく「作画崩壊」と揶揄されがちなジブリ かぐや 姫 あごの造形だが、その奥底には巨匠・高畑勲監督が狂気的な執念で仕組んだアニメーションの真髄と、計算され尽くした演出意図が眠っている。単なるネタ画像として消費するにはあまりに惜しい。日本最高峰のクリエイターたちが一瞬のカットに注ぎ込んだ、美しくも恐ろしい制作秘話の全貌を紐解いていく。
なぜ帝のあごは鋭利なのか?作画崩壊説を覆す高畑勲の演出意図
帝がかぐや姫の背後に忍び寄り、逃げ場を奪うように抱きすくめるシーン。あの瞬間、彼の横顔は誰もが息を呑むほど鋭利に尖っていた。一部の視聴者が「定規で測ったような角度」「作画スタッフの悪ふざけか」と騒ぎ立てたのも無理はない。だが、これを作画の乱れと解釈するのは完全な誤りだ。
高畑勲監督が意図したのは、かぐや姫が抱いた「圧倒的な生理的嫌悪感」を、観客にダイレクトに追体験させることだった。数々の貴公子たちの身勝手な求婚を拒絶し続けてきた姫にとって、最高権力者の突然の接触は恐怖以外の何物でもない。姫の目に映る帝は、優美で高貴な美男子ではなく、傲慢で異様なナルシシズムをまとった怪物だったのだ。尖りすぎたあの輪郭は、彼女が感じた精神的拒絶の視覚化にほかならない。
中村七之助の怪演が生んだ「絶対的権力者の無自覚な暴力性」
視覚的なインパクトをさらに際立たせたのが、歌舞伎俳優の中村七之助による絶妙な声の演技だ。本作は音声をあらかじめ収録してから絵を描き起こす「プレスコ」手法を採用しており、七之助の演技が帝のキャラクター造形そのものを決定づけた。
「自分に愛されて喜ばない女など、この世にいるはずがない」という底知れぬ自信。七之助が発する艶やかで気品ある声音と、画面上で暴走する歪なビジュアルが見事なコントラストを生む。声が上質であればあるほど、帝の独善性と不気味さが際立ち、シーン全体に息が詰まるような緊張感を漂わせる結果となった。
東宝と日本テレビ放送網が支えた妥協なきアニメーション制作の現場
本作は東宝配給のもと、日本テレビ放送網の故・氏家齊一郎氏による熱烈な後押しによって結実した。企画始動から完成までに約8年の歳月と50億円を超える予算を費やした、まさに孤高の劇場用アニメ映画である。
通常のアニメーション制作で用いられる画一的な輪郭線を完全に捨て去り、スケッチの鉛筆線と水彩の筆致をそのまま動かすという前代未聞の手法を選択。作画監督の田辺修をはじめとする日本最高峰の作画陣が、人物の感情の揺らぎをミリ単位の線で描き出した。あの帝の横顔も、幾重にも及ぶ試行錯誤の末に削り出された、アニメーターたちの血と汗の結晶なのだ。
金曜ロードショーとNetflixで広がる新たな解釈の波
日本テレビ系の『金曜ロードショー』でオンエアされるたび、XをはじめとするSNSでは帝のキャプチャ画像が一気に拡散される。さらにNetflixなどのグローバル配信を通じて海外のアニメファンにも浸透したことで、このシーンの受け止め方は時代とともに深化を遂げた。
初見時の「笑い」を通り抜けた視聴者は、二度目の鑑賞でその奥にある「かぐや姫の絶望」に気づかされる。家父長制の抑圧や、他者の心を踏みにじる権力への風刺として読み解く考察も数多く投稿されており、色褪せない現代性を証明し続けている。
古典『竹取物語』の枠組みを超えた歴史ファンタジーとしての凄み
日本最古の物語とされる『竹取物語』において、帝はかぐや姫と唯一心を通わせる風流な存在として描かれるのが通例だった。しかし高畑監督は、その甘美なファンタジーを容赦なく解体してみせた。
現世を生きることの歓びと残酷さ、そして人間が持つ身勝手な愛着。本作は単なる歴史ファンタジーの枠を軽々と飛び越え、人間の生々しい本質を抉り出す。あの強烈なあごのラインは、千年読み継がれてきた古典に高畑勲が打ち込んだ、強烈で忘れがたい批評の楔(くさび)なのである。 (出典: ジブリ かぐや 姫 あご(Yahoo!ニュース))